yuzukayuzuka

yuzukaです。

「結婚式って、やるべきかな」

結婚式は、人生の答え合わせだ。

たびたび見かけるこの名言を見るたび、私は首がもげるほど、何度も何度も頷く。
素敵な両親、今まで円満退社してきた会社の、元上司や後輩、友情を築き上げてきた地元の友人や、学生時代の仲間たち。
そして現在身を置いている場所にいるところで招待したことで訪れてくれた、ドレスコードをしっかりと守った美しい友人達。

もちろん隣には、まともなパートナー。

「この子って、こんなに愛されてきたの」「この子って、こんなにまともなの」「私って、こんなに正しい結婚をするのよ」

プロフィールビデオでは両親が撮影した、新郎新婦の愛されてきた軌跡を辿るアルバムが、
センチメンタルな音楽とともに、上映される。

ああ、この人達は、こんなに大事にされてきたんだ。

私も誰かの結婚式に呼ばれるたび、この一連の流れと飽くほどに対面するわけだが、
やっぱり何度体験してもその度に心から感動するし、憧れを覚える。
そんな場所に招いてくれたことにも喜びを感じながら、幸せのおすそわけをもらった気分になるのだ。

「おめでとう」「本当に素敵な結婚式だった」
いろんな意見はあるが、私が彼女達にこれまで口にしたお祝いや賛美の言葉は、どう濾したって粗が残らない、正真正銘の本物だ。

だけどもふと、ほんのふと、自分は……。と考えた時、私は、身震いするほどにぞっとしている自分に気づく。

「私達も結婚式あげたいね」
未婚の友達に何の気なしにそう言われるたび、私は同じく何の気なしに自分の結婚式を想像して、そしてすぐに取りやめ、ただ苦笑いで頷くのだ。

恐ろしかった。

だって、私にはあんな結婚式、できない。
私の人生は、「不正解」だから。

自分の結婚式を想像すると、吐き気がした

披露宴の席辞表

私には仲の良い両親は、いない。
親族はみんな問題を抱えていて、私は弟の結婚式にも、顔を出さなかった。

学生時代や看護師時代の同僚や先輩は少なくないし、みんな素敵だけど、
でもやっぱり空白の時間を説明するだけの人材は存在しない。

それに、呼びづらい人だって多い。

「あそこのテーブルって、なんの友達?」
「ああ、あそこは五反田のホテヘルで働いていた時の友人だよ。」
本当のことを、伝えるべきか?それとも、隠すべきか?

私は良い。私は良くても、彼女達は私の人生の答えあわせに参加することを、どう思うだろうか。

風俗で働いていたことを知る人も、私が今、作家を名乗って別の名前で仕事をしていることを知る人も、
私の周りには、ほとんどいない。
私はどう頑張ったって、正しい人生の振り返りが、できないのだ。

「結婚式をするべきだろうか」長年抱えてきたこの質問への答えを考えた時、
まず一番最初に浮かんでくる考えは「したくない」という要望だ。

できればしたくないし、できれば避けて通りたいし、もしもするのだとしても、
ふたりで海外でっていう、よくあるあの形式をとりたい。

でもそれと同時に、「結婚式ってするべきかなあ」と誰かに相談されるたび、私は一通り考えたあと、
少し間をおいて、でも確かに、「するべきだと思うよ」と、答えるのだ。

それでも結婚式には、やる価値がある

結婚式の写真

結婚式は、「おおごと」だ。
友人、家族、延いては神までもを巻き込み、永遠の愛を誓う。
参加する人たちは、祝儀として、お金まで払う。

葬式よりも優先順位が高いといわれる冠婚葬祭のうちのひとつである結婚式に参加するため、
数少ない有給を消化し、めったに使わないドレスやスーツを新調し、遠方から、飛行機に乗って参加する人もいるかもしれない。

言い方を選ばなければ、ただ自分達が永遠の愛を誓うだけのために、多くの人の時間も、お金も、奪うのだ。
そのプレッシャーは、とてつもないものだと思う。

もちろん、結婚式をあげる本人だって、その儀式のために時間と努力、そしてお金を差し出す。
来てくれる仲間のために、いかに素晴らしい式にするかに頭を悩ませ、
「素敵な花嫁さんですね」「素敵な夫さんですね」と言われるために、エステに行ったり、筋トレをしたりと、
何ヶ月も前から準備を重ねる。

もう一度言う。結婚式は、「おおごと」だ。

声高らかに「私(僕)はこの人を選びました」と宣言するというには、覚悟とリスクが必要なのだ。
それはただ、二人きりで婚約届けにサインして、知らない役員に提出し、フェイスブックに投稿するよりも、はるかに犠牲と緊張をともなうものだ。

昔、仲の良い先輩の結婚式に参加した時、小さな教会で愛を誓う美しい彼女の姿と、
それを眺めるうっとりとした群衆達の視線を見て、涙を流したことがある。

誰もが、彼らの永遠の愛を信じた。いや、願った。
彼女達の姿を見ながら、「こんなに素敵な式をして、相手を裏切れるはずがない」と、思った。

誰もに愛されて来た新郎新婦は、誰もに固唾を飲んで見守られながら、誓いのキスをした。
そう、その時に。その瞬間にその様子を見ながら、私は確かに感じたのだ。「結婚式」の、意味を。

結婚式は、ただドレスを着て幸せをアピールして、インスタグラムに投稿するだけを目的とした、くだらない瞬間なんかではない。
誰もに愛されて来た「相手」を、あらためて自分が背負っていくことを自覚せざるをえない瞬間、そしてその自覚を周囲の大切な人間に宣言する瞬間。そういうかけがえのない瞬間を、とてつもなく重いその瞬間を詰め込んだもの、それが「結婚式」ではないか、と思うのだ。

きっと長い結婚生活の中で、イケてる優しい男の子や、巨乳の姉ちゃんに言い寄られたりすることもあるだろうし、相手の変わりようにため息をつき、逃げ出したくなる感情が訪れる瞬間があると思う。
それはきっと日常のあちこちに転がっていて、深刻に恐ろしい顔をして訪れるわけではなく、
ちょっと小石に躓くような感覚で、かなりライトに訪れる。

そんなときに「結婚式」は、多分、抑止力になる。
良い意味でも、悪い意味でも「でも、あんなに大掛かりな式をやったしな」という記憶は、
「ちょっとした誘惑」とてんびんにかけた時、間違いなく、正しい選択を助ける役割をすると思うのだ。

だから私は、「結婚式は、できればした方が良い」と、思う。
正しくなくても、規模が小さくても、なんだって良いから、
お互いの大切な人を巻き込み、「永遠の愛を誓う」という行為は、多分この先、ふたりの絆を維持する、接着剤になると思う。

もちろん、そんな結婚式をあげたことなんて嘘のように、小石につまずきまくって
巨乳の姉ちゃんの誘惑にのるような「不倫男」も、たくさん存在する。

そいつらにうつつを抜かす時間がどれだけ無駄なのかって話は、また今度。

yuzuka

この記事を書いた人

yuzukayuzuka

編集長。元精神科、美容整形外科の看護師で、風俗嬢の経験もある。実体験や、それで得た知識をもとに綴るtwitterやnoteが話題を呼び、多数メディアにコラムを寄稿したのち、peek a booを立ち上げる。ズボラで絵が下手。Twitterでは時々毒を吐き、ぷち炎上する。美人に弱い。